集会案内

【日曜日】
日曜日の礼拝 毎週 午前10時20分~11時15分
子どもの教会  毎週 午前10時20分~11時15分

● 同時刻に子どもの教会があります。
● 小さなお子様をお連れの方も、お気軽にご参加ください。
● 礼拝後お茶の会があります。お時間のある方はどうぞ。

【水曜日】
聖書と祈りの会 毎週 午前10時20分~11時30分
晩の祈りの会  (休止中)

【金曜日】牧師面談日 毎週金曜日 午後(希望時間を事前にご連絡ください)

2024年5月31日金曜日

【マタイ19:13~15】おばちゃん、アーメン

【2023年6月11日花の日子どもの日礼拝メッセージより抜粋。世界公開なので、冒頭部分は、礼拝で具体的に話した内容を一部ぼかしております】

先日、とあるボランティアに参加しました。

平日で参加者は20名弱、子どもは6歳の女の子が一人、

お母さんと参加していました。

単純な作業に飽きたのか、女の子はお母さんのそばを離れ

他の参加者の周りを歩き回り、会話に勝手に加わったり、

大声を出したり、大きな声で自分のことを話し始めました。

参加者たちも最初は相手をしていたましたが徐々に彼女を

無視して会話をしたり、女の子から離れました。

彼女は気にせず参加者の間を歩き回っていました。

お母さんが何度も連れ戻しても彼女はすぐ走り出します。

わたしの横にも座りました。

女の子は大きな声で、お父さんの職場のこと、家の場所や

家族の会話など非常に個人的な内容をポンポン大声で

しゃべります。近くで聴く母親を交互に見ながら、つい

「あっちの方が面白そうだよ?」等と女の子の関心を

そらそうとしていました。

唯一、女の子を無視しなかったのは連れ合いだけでした

(どう対応したらいいのか内心オロオロしていたそう)

女の子はほとんどの時間を連れ合いの横で過ごしました。

マタイによる福音書19章には子どもが登場します。

イエス様に触れていただくために人々が子どもたちを

連れて来ました。

偉い先生に触れてもらえたらその子は幸せになれる。

そう思って連れて来ました。

これを見て弟子達は彼らを叱りました。

この話を読み「弟子たちは心が冷たい」と思いますか?

しかし、わたしは弟子の気持ちが少し理解できます。

直前で、イエス様はファリサイ派の人々と対決します

(19:1~12)。

イエス様の言葉尻をとらえ揚げ足取りをしようとする人々

が難問をつきつけます。緊迫の現場です。

「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために

人々が子供たちを連れてきた」のです(19:13)。

あの女の子が何人も飛び込んできて場が混乱したら、

弟子たちのように「ちょっと!」と保護者に文句を言い

たくなるかもしれません。

ところがイエス様はそんな弟子達を見て

「子供たちを私のところに来させなさい。

妨げてはならない」と言いました。

手を置いて祝福されました。

イエス様は子どもたちを呼び寄せ「天の国はこのような者

たちのものだ」と言いました。

弟子たちが追い出そうとした子どもたちをイエス様は

喜んで受け入れます。

祝福とは子どもたちの存在と価値を認め、

神様の限りない恵みがあるように祈ることです。

イエス様は一人の子どもを呼び寄せ、

弟子たちの真ん中に立たせ

「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して

天の国に入ることはできない」

「わたしの名のためにこのような一人の子どもを

受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」

と教えます(マタイ18:1~5)。 

聖書の時代、神様の掟、律法を学んでいない子どもは

神の国には入れない(救われない)と考えられていました。

だから、子どもをしっかり教育しなければならない。

ユダヤ教では子どもの教育に力を入れます。

教育はもちろん大事です。

しかし、イエス様は「神の国はこのような者」、

子どもたちのものだということです。

子どもは既にそのまま神様によって受け入れられ、

祝福されている。イエス様は大人達に視点の転換、

常識の変更を迫ります。

視点を変えなさい。

大人たちの身勝手で妨げたり、存在を否定するな。

イエス様の語る「子ども」は、天の国に入れる存在という

のだから打算的ではない、可愛く、純粋で、素直な存在を

想像するかもしれません。しかし、イエス様が真ん中に

立たせたこの子は、大人の言うことを従順に守る子では

なかったと思います。

子どもは大人の会話の邪魔をし、静かにじっとしなさいと

家族に言われても走り回り、大人がギョッとするような

質問や言葉を発します。子どもは一人前と認められない

存在です。

大人に教えられ、大人から命令される存在です。


18:6では「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」

と呼ばれる人たちがいます。議論の場から締め出された

子どもたちです。「小さな者を受け入れなさい」という

「わたしたちが小さくしている人」とは、わたしたちが

親切にしたくない相手です。

「あの人はつまらない人」とわたしたちが判断する相手。

「あんな風だから/無視されて当然」と言い訳し、

「わたしが受け入れない、認めたくないっていう気持ちは

当然よ」と思ってしまう。そうなっていませんか?

というイエス様のこの態度は、

子どもたちを教える(命令する)対象とみるのではなく、

愛し、敬意を払う対象だと訴える行動です。


この話を読んだ皆さんの中には

「教会はそんなことしない。小さな子どもたちを

受け入れます/子どもたちが教会に来たら嬉しい。

子どもたちを拒絶するなどあり得ない」

と思う人もいるかもしれません。


「わたしの子も、知り合いの子も、教会で居場所がなく

過ごしたことがあります」と語る母親の本を読みました。

彼女はイギリスのキリスト教グループの一つ、

英国バプテスト同盟の理事会メンバーであり教会で指導的

立場に立つ信徒です。彼女の息子はダウン症です。

また「CHAD委員会 (障碍に対する教会の取り組み 

Church Action on Disabilityについての委員会」でも

働いています。

著書『知的障碍者と教会』には、ダウン症の息子を中心に

多くの子どもたち、その家族の話があります

(フェイス・バウアーズ著 片山寛、加藤英治訳

知的障碍者と教会 驚きを与える友人たち

いのちのことば社、2017)

牧師や教会メンバーから悪意はないと分かっていても 

傷ついたり疑問に思ったり、主張するべきだと感じた

出来事がたくさん書かれています。


バウアースは、人によっては賛成しないかも、

と前置きしつつあえて知的障碍という言葉を使います。

ダウン症、と紹介すると、一人ひとりを見る代わりに

安易に型にあてはめたり先入観を持つ。ダウン症だから、

人懐っこくて、音楽が好きで、穏やかなんでしょ?と。

でも、人によって違う。その話がしたいわけじゃない。

また、受け入れやすい言葉に言い換えても、その言葉が

問題の多い意味を持つことがある。

知能の働きが弱いことを専門的に表現する言葉は、

より一般的で侮辱的な意味を持つようになる傾向がある。

それよりは、だれでも理解できる、明確で率直で、特に

悪意を含むような内容のない知的障碍という表現を使う

としています。

わたしも、この本を紹介する際、著者の思いに従います。



わたしも同じように無意識に傷つけているかもしれない、

同じ言動をとりかねない話が多いです。

誰かを責める目的ではなく自戒の意味を込めて、

わたしの意識をアップデートさせるために、ここで共有

させてください。


フェイスさんは障碍者を聖なる存在にしないでほしいと

訴えます。

「知的障碍を持つ人たちは『聖く(きよく)、

罪を知らない』という慰めは、ひんぱんに、そして

とても親切に、良心に語られます。多くの両親は、

それを心乱す言葉として受け止めます。私たちは自分の

子どもに罪を犯してほしいとは願いません。しかし『罪を

犯すことができない』というのは、なにか『人間では

ない』と言われているような気がするのです」

(同上、p.111引用)


「あっちに行け、教会に来るな」と直接言うだけが否定

ではない。むしろ、聖書やイエス様や十字架を持ち出し

「あなたの子どもは、神様の栄光をあらわすために障害を

持っている」と、レッテルを貼り説明する態度は、

等身大の知的障碍者をあるがままで人間として受け入れ

ようとしていないということ。わたしたちの子どもは、

苦難を負った悲劇的な人間ではないし、

決して成長しないピーターパンではない。

大人と認めてほしい、と。


著者は「あなたの子は礼拝に参加しても理解できない」

という反応に対し「かれらがどれほど理解しているかは

難しい問題ですが、特別大きな問題ではない。礼拝は頭

だけの問題ではないから。感情、感覚、直感すべてが

神様を礼拝することに関わっている。 それに、

かれらは雰囲気を敏感に感じ取ることができる、

自分が今ここで受け入れられているかどうかは感覚的に

わかる」と答えています。



知的障碍を持つ成人のための特別な聖書クラスでの話。

ジョンという名前の参加者は「おばちゃん、アーメン」

と祈りました。ふざけているのではありません。

この会に参加している人たちは、ジョンが何を祈ろうと

しているか理解できました。この一言は、彼の世話を

してくれる女性について神様への感謝をささげ、

彼女への祝福を神様に祈っているのです(同上、p.122)。


「わたしたちの教会では受け入れ態勢が取れない。

これは別の世界の話だ」と感じるかもしれません。

彼女はこんなアドバイスをしています。

「心配しないで。

この人たちは、愛情のための大きな余地を持っています。

何ができるか、かれらが何に興味を持っているかを

見つけなさい。かれらのために祈りなさい。

何であれ、あなたがすることを一度限りにするの

ではなく、継続的関心を確立しようと努めなさい」

(同上、p.125)


わたしたちもこの思いにつながることができますように。


・・・

礼拝後、オンライン出席者から

「わたしの子どもは〇〇という重度の障害をもって

います。でも、オンライン礼拝に参加している時、

お祈りで『アーメン』と聞くとパチンと手をたたきます。

彼女らしく礼拝に参加しています」

とコメントがありました。

本当に嬉しかった!

・・・


写真は教会メンバー撮影。

「ブログに使ってください」と寄せてくださいます。

感謝(*^▽^*)

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日本キリスト教団はりま平安教会
牧師 松本あずさ

〒675-0038
兵庫県加古川市加古川町木村112-2
電 話:079-426-8863(FAX兼用)
メール:harimaheianchurch(あっとまーく)yahoo.co.jp

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2024年5月28日火曜日

2024年6月予定表

 みなさんこんにちは。

教区総会&教会総会でバタバタしていておりました。


教会メンバー撮影。

「ブログに使ってください」ときれいな花の写真を色々と送って

くださいます。だいぶ集まってきたのでこちらも紹介したいな。



6月2日(日)聖霊降臨節第3主日

使徒言行録10:9~16(カイサリア・ペンテコステ)
「新秩序 ニューオーダー」
・聖餐式は、日本キリスト教団の式文に戻しました。


6月9日(日)聖霊降臨節第4主日
【花の日子どもの日】
イザヤ書11:6~9
「8歳の大統領」
・礼拝後 会堂建築委員会、役員会


6月16日(日)聖霊降臨節第5主日
【LGBTQ+プライド月間を覚えて①】
レビ記18:2~5
「虹色-プライド月間-」
・午後2時 家庭集会


6月23日(日)聖霊降臨節第6主日
【LGBTQ+プライド月間を覚えて②】 
マタイによる福音書8:5~13
「多様性の祝福」
・午後7時 夕礼拝(内容は朝と同じ)



6月30日(日)聖霊降臨節第7主日
サムエル記上8:10~22
「王が欲しい蛙」

・・・
去年6月、新聞で「6月は多様な性(LGBTQ+)への理解を深め、権利を啓発する「プライド月間」」だと読みました
ぜひ礼拝でも考えたいと願っていました。
わたし自身、関学のレインボープライドに毎年感動するけど
何かを発信できているか/熱い気持ちになったことを話しているかと言うと出来ていません。

でも、性的マイノリティの方々が教会や礼拝で傷ついた、
という話はよく聞きます。酷い話です。
だから、考えたいです。
特に、性的マイノリティの方々の存在を否定するために使われやすい聖書箇所(6/16礼拝)、これは同性愛者の話?とあげられることのある聖書箇所(6/23礼拝)を共に読みます。





「L」レズビアン:Lesbian女性を愛する女性
「G」ゲイ:Gay男性を愛する男性
「B」バイセクシュアル:
 Bisexual女性または男性、あるいはその他の、二つ以上の
 性に惹かれる人
「T」トランスジェンダー:
 Transgender身体の性(身体的性)と心の性(性自認)が
 異なる人
「Q」
クィアQueer
異性愛者、上記以外のさまざまな性的指向・性自認の総称的意味
クエスチョニングQuestioning
自分自身の性的指向や性自認がはっきりしていない人、または意図的に決めていない人



・・・
インスタグラムも時々更新中です。

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